九十九 ひをりの日
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むかし、右近の馬場のひをりの日、むかひに立てたりける車に、女の顔の、下簾よりほのかに見えければ、中将なりける男のよみてやりける。
見ずもあらず見もせぬ人の恋しくはあやなく今日やながめ暮さむ
返し、
しるしらぬ何かあやなくわきていはむ思ひのみこそしるべなりけれ
のちにはたれとしりにけり。
現代語訳
昔、右近の馬場で騎射の行事の日に、向かいに立てた牛車に、女の顔が、簾の内側の垂れぎぬからほのかに見えたので、中将であった男が歌を詠んで書き送った。
見なかったわけでもなく、かといってちゃんと見たわけでもない人のことを、とても恋しく思いつつ、今日はひたすら物思いに沈んで一日を過ごすのでしょうか。
返し、
あなたは知るとか知らないとかおっしゃいますが、何をそんなむやみに判断できましょう。私を知るには、あなたの思いこそ、道案内です。
後には、男は女が誰であるか、会って知るようになった。
語句
■右近の馬場 右近衛府に属する馬場。一条大宮にあった。 ■ひをり 騎射の行事。左右近衛府の役人が騎射を行う。五月に行われた。 ■下簾 牛車の簾の内側にかける垂れぎぬ。 ■中将なりける男 業平。 ■「恋しくは」 「恋しくは」の「は」は強意。「あやなし」はむやみに。「ながめ暮らす」はぼんやり物思いに沈んで一日を過ごす。■「しるしらぬ…」 「思ひ」には「灯」が詠み込んである。「しるべ」は道案内。
解説
右近の馬場とは右近衛府に属する馬場で一条大宮にありました。5月には馬の上から的を射る騎射の祭が行われます。高貴なご夫人たちも、たくさんの車を立てて、見物に訪れるのです。
その場にいた業平とおぼしき「中将」が、ある車の下簾ごしにうっすらと女の姿が見えていたので、見えるか見えないか、この微妙な感じだからこそ、心惹かれる。わけもなく気持ちをかき乱されるのです。女は、会うとか会わないとかより、気持ち次第ですわと返すという話です。