百 忘れ草

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むかし、男、後涼殿のはさまを渡りければ、あるやむごとなき人の御局より、「忘れ草を忍ぶ草とやいふ」とて、いださせたまへりければ、たまはりて、

忘れ草おふる野辺とは見るらめどこはしのぶなりのちも頼まむ

現代語訳

昔、男が内裏の清涼殿と後涼殿の間を渡っていたところ、ある高貴な方の局から「この忘れ草のことを忍ぶ草というのでしょうか」といって、差出されたので、賜って、

貴女はこの草を忘れ草とお思いですか。そんなふうに私が貴女を忘れたと思っていらっしゃるのですね。しかしこれは忍ぶ草です。私は貴女を忘れたのではなく、貴女への思いを忍んでいるのです。今後もお会いできることを頼みにして。

語句

■後涼殿 内裏の建物の一つ。清涼殿の西。渡殿とは渡殿でつながっている。女御・更衣などの居所がある。 ■はさま 間。 ■やむごとなき 高貴な。 ■忘れ草 萱草(かんぞう)。ユリ科の植物。 ■忍ぶ草 シダ植物。ツユシノブともいう。 ■「忘れ草…」 「おふる」は植物が生えている。「のちも頼まむ」は今後もお会いできることを頼みとしましょう。局にいるやむごとなき人は男の思い人で、男はその気持ちを抑えている。

解説

この段は、「しのぶ草」と「忘れ草」は、別の植物だということが前提です。女が男に忘れ草を贈って、「これはしのぶ草でしょうか」と言葉を添えたのは、「あなたは私を忘れてしまったのでしょうか?

それとも、人目を忍んで通ってこられないのでしょうか」という意味です。女はこの植物が「忘れ草」であることを知りながら、わざと「これは忍ぶ草でしょうか」と聞いて、ひょっとして貴方は人目をしのんで私のところに通ってこれないのでしょうかと、訪ねているわけです。

対すて男の返事は、このあたりは忘れ草が多く生える野辺ですが、この草はしのぶ草です。忘れ草ではなく、しのぶ草です。つまり、私はあなたを忘れていません。人目を忍んで、なかなか会いにいけないだけです。そして「忍ぶ」に相手を「偲ぶ」を掛詞にして、「あなたのことをお慕いしていますよ」という意味をこめます。

つまり、こういうことです。女「あなたは私を忘れたんですか。それとも人目を忍んで通ってこれないのでしょうか」男「あなたのおっしゃるとおり、人目を忍んで通ってこれないのです。でも、貴女のことを偲んで、お慕いする気持ちはつのる一方です」。

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