九十 桜花

むかし、つれなき人をいかでと思ひわたりければ、あはれとや思ひけむ、「さらば、あす、ものごしにても」といへりけるを、かぎりなくうれしく、またうたがはしかりければ、おもしろかりける桜につけて、

桜花今日こそかくもにほふともあな頼みがた明日の夜のこと

といふ心ばへもあるべし。

現代語訳

昔、冷淡な相手をどうにか自分に振り向かせようと長年思い続けていたところ、相手は心打たれたのか「だったら明日、物を隔ててならば、お会いします」と言ったのを、限りなく嬉しく、また疑はしくも思ったので、趣深い桜に歌を添えて、

桜花は今日はこのように美しく色づいていますが、いったい、あてにならないものです。明日の夜はどうなっているか。

というふうに心が動くのも、もっともなことだ。

語句

■物ごし 几帳・簾などを隔てて。 ■「桜花…」 「にほふ」は美しく色づいていること。■心ばえ 心の動き。

解説

長く願ってきた思いがいよいよかなえられるとなると、本当だろうか。明日には「やっぱりダメでした」なんてことになるんじゃないかと疑いがわいてくる。その気持ちを描いた話です。

親鸞が出家しようとして天台座主慈円をたずねたところ、もう夜だったので、明日にしなさいと言われるが、いいえ、明日はどうなるかわかりません。今出家させてくださいと、

明日ありと思ふ心のあだ桜夜半に嵐の吹かぬものかは

と詠んだというエピソードに通じるものがあります(ただし史実性は疑わしい)。