四十 すける物思ひ

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むかし、若き男、けしうはあらぬ女を思ひけり。さかしらする親ありて、思ひもぞつくとて、この女をほかへ追ひやらむとす。さこそいへ、まだ追ひやらず。人の子なれば、まだ心いきほひなかりければ、とどむるいきほひなし。女もいやしければ、すまふ力なし。さる間に、思ひはいやまさりにまさる。にはかに、親、この女を追ひうつ。男、血の涙を流せども、とどむるよしなし。率ていでていぬ。男、泣く泣くよめる。

いでていなばたれか別れのかたからむありしにまさる今日は悲しも

とよみて絶え入りにけり。親あわてにけり。なほ思ひてこそいひしか、いとかくしもあらじと思ふに、真実(しんじち)に絶え入りにければ、まどひて願立てり。今日のいりあひばかりに絶え入りて、またの日の戌の時ばかりになむ、からうじていきいでたりける。むかしの若人はさるすける物思ひをなむしける。今のおきな、まさにしなむや。

現代語訳

昔、若い男が、悪くない女に懸想していた。それに気をまわす親があって、わが子がそんな女に執着するようなことがあっては事だと、この女をよそへ追いやろうとした。そうはいっても、まだ追いやらずにいた。男は親がかりの身なので、まだ親に反抗してふるまう気骨もなく、女を引きとどめる勢いも無い。女も身分賎しき者なので、一人で暮らしていく生活力が無い。そうこうしている間に、二人の気持ちはいや増しに増す。いきなり、親がこの女を追い出した。男は血の涙を流したが、引きとどめようがない。人が女を連れて家を出て行ってしまった。男は泣く泣く詠んだ。

女が自ら出て行くのなら、誰が別れ難く思うだろうか。誰も思わない。無理に引き離されるから別れ難いのだ。女と一緒にいた昔よりも、今日の悲しさはさらに大きいよ。

と詠んで息も絶え絶えになった。親はあわてた。何といっても、わが子のことを思って女を追い出したのだ。まったく、これほどのことはあるまいと思っていたが、ほんとうにわが子は息も絶え絶えなので、親は困惑してしまい神仏に祈った。

その日の日没ごろ前後不覚に陥り、次の日の午後8時ころようやく生き返った。昔の若者は、このような一途な恋患いをしたのだ。今のご老人が、こんなことするだろうか。

語句

■すける 一途にひたぶるの。■けしうはあらぬ 悪くはない。 ■さかしらする 気をまわす。 ■思ひつく (わが子が女に)執着する。 ■人の子なれば 親がかりの身なので ■心いきほひなかりければ 親に反抗する気骨が無い。 ■「いでていなば…」「たれか別れのかたからむ」は、誰が別れ難く思うだろうか。思わない。「ありし」は女と一緒に暮らしていた昔のこと。 ■絶え入りにけり 息が絶え絶えで前後不覚になった。 ■真実 狂言ではなく、本当に。 ■願立てけり 神仏に祈った。 ■いりあひ 日没のころ ■戌の時 午後8時頃。 ■いきいで 生き出で 生き返る。 ■今のおきな 最近の老人。 ■しなむや 為なむや。こんな恋愛をするだろうか。

解説

主人公「若き男」は、身分の高くない女…おそらく館に仕えている下女と恋仲になったのです。親は猛反対します。そんなお前、身分いやしき下女との結婚なんて、とんでもない話だ。しかし、あれはとても気立てがいいんです。

気立てとかそういう問題ではない。人には身分相応というものがある。あんな女、叩き出してやる。ちょ、待ってください。なんだ。親に養われている分際で、さからうのか。自立もしてないすねかじりのクセに。

ぐう。それを言われると辛いです。でも…などと言っているうちに下女に対する思いは勝りに勝りますが、親はとうとう下女に暇を出してしまいます。男はわああああと泣いて、あの娘が自分から出て行ったならこんなに別れがつらいこともなかった。

それは俺がふられたんだ。諦めもつく。でもこんな形で強引に追い出されるなんて、あまりに悲しい。未練だと、息も絶え絶えになりました。

「あああ、こんなことになるとは!」親は息子の気持ちがそこまでだったかとはじめて悟り、さかんに神仏に祈り続けると、次の日の夕方に息子はかろうじて生き返ったという話です。「昔の若者はこんな情熱にまかせた恋をしたんじゃよ。

今の年寄りには、無理だろうなあ」と最後はしみじみ言ってますが、ここで語っているのが、まさに「若き男」の年老いた姿だとすると、情熱にみちたラブロマンスが描かれた後、老人になった主人公が出てきて「…そんな昔もあったわい」と語っている、映画のラストシーンのような味わいも出ています。

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