三十八 恋といふ
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むかし、紀の有常がりいきたるに、歩きて遅く来けるに、よみてやりける。
君により思ひならひぬ世の中の人はこれをや恋といふらむ
返し、
ならはねば世の人ごとになにをかも恋とはいふと問ひしわれしも
現代語訳
昔、男が紀有常の家に行ったところ、紀有常は外出していて遅くに戻ってきた。そこで男が紀有常に歌を書き送った。
あなたによって、今まで感じたことのない思いを味わわされましたよ。世の中の人はこれを恋というのでしょうね。
返し、
私は恋の経験が無いので、世間の人ごとに何をいったい恋だと言っているのか聞いているほどです。そんな私に、貴方が恋の何たるかを見出すなんて。
語句
■紀の有常 平安時代の貴族。紀名虎の子。仁明・文徳・清和三代の帝に仕えた。十六段に登場。 ■がり ~のところに。 ■歩きて ここでは外出していて。 ■「君により…」 「君により」は、あなたによって。「思ひならひぬ」今までこんな思いはしたことがない。■「ならはねば…」 「ならはねば」は(恋の経験が)無いので。「かも」はいったい。
解説
ある人が紀有常の館に訪ねていったところ、有常は留守でした。訪ねていった男はたぶん座敷に通されて、待たされたんでしょう。
早く帰ってこないかなあ。つもる話もあるのにと、待ち遠しさがつのります。で、ようやく紀有常が帰ってきました。「遅いじゃないか。今日来るって約束してたのに」「すまんすまん。ちょっと用事が長引いて」などとやり取りしつつ、待っていた男が歌を詠みました。
君に教えられたよ。こういう気持ちを、恋と言うんだろうかねえと。そこで紀有常が答えます。私は恋の経験はない。だから世の人ごとに恋とは何か、質問してるくらいだ。それほど恋にうとい私に、「これが恋でしょうか」と問いかけるなんて、君、方向違いだよと。
もちろんこの二人は数々の恋をしてきた経験豊富な二人なんですが、恋にうとい二人の男、という設定のもと、男同士、たわむれているのです。
さらに、有常とやり取りしている男を業平と考えると、恋の経験豊富な業平さんが、私なんかに恋についてお尋ねになるなんてというニュアンスが出てきて、味わいが増します。